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関西芸術会議VOL.3「社会とアートのあり方」メモ



関西芸術会議VOL.3「社会とアートのあり方」は、やなぎみわ氏自身が過去から現在に至る作品をスライドで映写しながら語るプレゼンテーションで始まり、その言葉をきっかけに鷲田清一氏が問いかけ、あるいは自らの考えを述べる形で対話が進行した。

以下の文章はお2人の対話の中から自分自身が触発されたキーワードを中心に記したメモである。

Y:やなぎみわ氏
W:鷲田清一氏

Y:My Grandmothersという公募モデルを使った作品の初期には、モデルとなる人の語る「物語」が重要だと思っていたのでインタビューに重きをおいていたが、今は「物語」が重要なのではないと考えていて、モデルの人やりたいことが印象的であれば取り上げて制作する。

W:最近、なぜ物語なのか?例えばアイデンティティ=物語だ、アイデンティティという物語に納得できなければ、別の語り方を求める(自分探し)だろう。物語は「腑に落ちる」とか「納得する」「首尾一貫」という言葉にみられるように良い意味合いを感じさせるが、物語には良い物語もあれば悪い物語(例えば洗脳)もある。今、自分らしくあらねばならないという物語の脅迫観念に囚われている。

W:現在はのっぺりした世の中だ、のっぺりしていたり、妙にうまく行っている世の中はイヤだ。希望を持っているのか持たされているのか分からない。

Y:自分は直感で作品を見切り発車させて制作にとりかかる。長くやり続けると分かってくるものがある(ヤメたらダメだ)。でも自分のは美術作品なので腑に落ちてはいけない、違和感が必要。

Y:今は万人が小さなクリエイターであることを求められているのではないか。万人がクリエイトに参加するという。でもしょせんは資本主義に回収されているんではないか。

W:現代はパッシヴ(受身)にさせられる。クレーマーは究極の受身の人だ。今、世の中はなんでもプロ(商業もあれば管もあるが)に任せている。効率がいい。結果、自分では何も出来なくなる。クレーマーは税金や対価を払っており、自分は何もせずに攻撃的に文句を言う。これは安心して他者にぶら下っている=究極の受身だ。ひとりひとりがもっとアクティブに関われば、ちょっとでも関わることで世の中は少しは変わるはずだ。

W:アーティストがするやり方(社会との関わり方)は面白い。普通なら、共通の目標を設定し、個人の役割を決めるというやり方をする。その結果個人としては何をやってるのかわからなくなり、面白くなくなるということがよくある。一方でアーティストは自分で何をしようとしているか分かっていないのにやり始めて、周りの人を巻き込んでしまう。

Y:半分くらいはわかってますよ、でないと人に説明できない。

W:アーティストがやるような、ほんやりしたイメージで、ゆるいやり方でっててうところに、新しい社会に繋がるのではないか・・・。

Y:自分自身をいくら掘ってもたかがしれている。2~3のアイデアに繋がっても長続きしない。自分以外のものを追求しないと。

W:アートはニーズに応えてはいけない。阿蘇山のカルデラの中に居ると仮定すると外輪山の外、外部は見えない。アートは外部を垣間見せることだ。これは本当のニーズなのかと疑問を持たせるというように。

Y:アートは眼から小さなウロコがとれるという役割(大きなウロコを取るのはアートでない、洗脳のように)。
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