実はこの4年間ほど京都に縁がなくて、なかなか足を向けることがなかったのだ。
ぼくの中で京都という街の記憶は、喫茶店(cafe)と散歩と写真だ。
喫茶ならメジャーなイノダや六曜社(1階)、移転前の柳野ほかいろいろなところでコーヒーを飲んだ。
どこも、ボクの街歩きの句読点となってくれた。またゆっくり行ってみたい。
写真といえば、ぼくにとってはPrinzだ。
90年代、企画ギャラリーとして国内外の写真作家の作品を展示販売していた。
ここのディレクターがパリで見てきたLPレコードを販売するように若手写真作家のオリジナルプリントが販売されていて、それをパリ市民が気軽に買っていくという状況に触発され、Prinzで若手作家の写真を積極的に販売しようという試みがあった。ボクもディレクターのT村さんと知り合い、若手の一人として写真を展示販売する機会をいただいた。バブルが終わったとはいえ、今より経済状況が良かった。しかし、写真を購入するというマーケットが成立していないのだから、次々と写真が売れていくという状況でなかったと記憶している。
しかし、現在のように2000円均一でどの作品も買えますというようなマーケティングはとられなかった。若手とはいえギャラリーと話し合ったうえ、妥当と思えるプライス設定がなされていた。このあたりは、Prinzの、T村ディレクターの見識なのだ。具体的には作家みずから、企画ギャラリーみずから不用意なディスカウントをしない、作品の価値を維持するという見識であったと思う。
また、ある日遊びにいくと作家名はおぼえていないのだが、外国の作家の大型のモノクロームプリントが展示されていた。黒光りするようなそのプリントはミディアムグレーから真っ黒の間の中間トーンが深い素晴らしいものだった。
それを観たボクは、どうやったらこのようなプリントが出来るのか分からなかった。しかし、モノクロームのプリントというものは、やりようによってここまで美しくなりうるのだということを実地に眼に焼き付けることができた。これはボクにとっておおきな財産になっている。自分のプリントを観るときも他人のプリントを観るときも常にあのときのプリントがひとつの基準として頭の片隅にある。
もちろん写真というものは、その内容によってふさわしいプリントがあるから、ファインであれば良いというものではない。しかし、心から美しいと思えるプリントを生で観るという貴重な体験を京都という土地で今から20年近く以前にさせてもらったことは、感謝しても感謝しきれるものではない。
現在Prinzは、Webをみる限り当時のように活発に写真にかかわっているように見受けられないのが残念なのだけれども、ボクとはこのようなかかわりがあるのだ。そういえばPrinzに遊びにいくと必ずエスプレッソを飲ませていただいたなと、ふと思い出した。
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